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その11 宗教教育
教育は、ヨーロッパでもアラブでも、キリスト教、イスラム教を母体として発達してきました。聖書、もしくはコーランを基礎において、一般民衆に、それに関わるさまざまな医学、科学などを、日曜学校として教えていたのが、その始まりです。それゆえ彼ら宣教師は、敬虔な信徒であると同時に高度な学問を持ち合わせていました。時が進み、文明が発達するにつれ、神の領域から解き放たれた純粋な学問を、人々は求めるようになりました。何故ならば、彼らの持つ宗教教義そのものが、学問の理論に矛盾し、そぐわなくなってきたからです。例えば天文学における太陽系の理論は、聖書の教義そのものを否定する物である為に、さまざまな異端裁判を引き起こしました。つまり宗教と学問がそれぞれ相反する要素を持ち始めたのです。近代の教育は、宗教的博愛主義を全く排除したものであり、それが色々な弊害を起こしています。学問が人に役立つものよりも、人を支配するための手段になって来たことです。その為知識を重ねる度毎に、卑しい人格を身に付けて人に嫌われるという、皮肉な結果になるのです。
宗教と類似したものに道徳がありますが、まずここで問題になるのは何をもって”道徳”と定義するかです。「広辞苑」によれば、”道徳” とは ”ある社会で、その成員の社会に対する規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものではなく、個人の内面的なもの。” と定義されていますが、これを噛砕いて解釈するならば、それが正義か悪かに関わらず、詰まる所、多数派の持ち合わせている一般の認識が道徳である、という事になってしまいます。つまり道徳的判断は、自己の判断が、全ての他者にとって公正なものであることを推定して行なわれることになるのです。
さて、ここで話しを戻しましょう。昔、連続殺害の罪で死刑を求刑された囚人が、その法廷において次の様に言ったそうです。「この世界は、大量殺人を唯一の目的として破戒の武器を製造しているのではないでしょうか? この世界は無垢の婦人や子供達を粉々に、しかも極めて科学的に吹き飛ばさなかったでしょうか? 大量殺人者としての私は、これに比すれば一個の素人にすぎません。一人の殺人は悪漢を生み、百万の殺人は英雄を生む。量が神聖化するわけです。」 人間は自分から手を下さない殺人は、殺人という意識が全く無い。本当の返り血を浴びない限り、自らが犯した過ちに気付く事は無いのです。湾岸戦争に大半のお金を出した我々は、間接的であれ、50万人のイラク兵を殺しにした事にもなります。この世界が奪い合う世界であるならば、我々だけでも与え合う世界でありたいと思います.
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