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その7 日本の偏差値主義
一体、日本は、何時から個性や人格を一切排除した能力主義・偏差値主義に堕したのか。本来家庭的で、ほのぼのとしていると言うのが日本のイメージなのですが、その転換点は、第二次大戦前後にあるでしょう。日本は明治維新まで、永い間鎖国を続けてきた為か、随分、閉鎖的で歪んだ社会を築き上げてしまいました。近代になって、欧米の高度な文化を目の当たりにした時、日本は自分達が欧米から蔑視されているのではないかという、強い不安感に襲われるようになったのです。そして、その肥大化したコンプレックスが、まるで鏡に写る自分の姿に激しい攻撃を加えるように、アジアや大陸に侵略の矛先を向けたのです。本来ならば、同胞であるべき有色人種を傷めつけて支配下に置くことで、自分達の強さを世界に見せつけようとしたのでしょうが、それが全く逆効果、弱い者いじめをする悪い日本人と言うイメージが、世界中に定着してしまいました。
そもそも人は、2通りのタイプに分けられる。一つは自分が卑しめられて苦しんだ時、同じ弱いものに慈しみの情を表すか、それとも、自分より弱いものを苦しめることによって、自分の強さ・残虐さをアピールし、苦しめる側へ移ろうとするか。そして言うまでもなく日本は、典型的な後者だったわけです。(あなたの周りにもそういう人はいるでしょう。)結果として、日本は戦争に敗れ、降伏するに到ったわけですが、これを契機に日本は偏差値主義に走り出したのです。
ここに来て、教育水準の向上が、早急に求められました。もはやそこには本来あるべき、教育の理想の姿はありません。欧米の科学に打ち勝つ為には、何よりも効率性が必要とされたのです。狭い教室に何十人も寿司詰めにし、まるでブロイラーのように知識を頭の中に詰め込んでゆく。偏差値によって徹底的に序列化し、個性を遠慮なく切捨てていく。今の日本に必要なものは、欧米からなめられないように、見下されないようにする為だけの、膨大な科学知識だったのです。もともと明治以来、食べるものも食べずに次から次へとヨーロッパの新知識を詰め込んで来たこの国のインテリは、しばらく軍部の力で閉ざされていた言論の自由が、終戦によって解き放たれるやいなや、ありとあらゆる舶来物を、手当たり次第にガツガツと凄まじい勢いで飲み込んで来たわけですが、本来、自分が何たるかさえも理解できないのに、西洋の知識をごっそり詰め込み、頭でかっちになった上、ぎっしり詰まった教養のリュックが痩せさらばえた肩に食い込んでいるその様は、まさに痛々しい限りなのですが、本人はそれを結構得意のようにしている所が、余計滑稽に思えてしまうわけです。敗戦と言うコンプレックスが最も歪んだ形で露見してしまったのでしょうが、これでは教養ある人格者というよりも、何でも際限なく受け入れる単なる容器、もっとひどく言えば公衆便所といっても差し支えないでしょう。
結果として、経済・科学の分野において世界のトップに君臨した今現在、振り返って見たものは、家庭の崩壊と若者の堕落でした。古い習慣は返り見ず、ヨーロッパやアメリカの資本主義や文化をまるで土手鍋のようによせ集め、一時の栄華を手にいれた日本ですが、その影には甚だしい弊害を伴いました。ひょっとしたら、日本は何かを犠牲にして、一番大切なものを失ったのかもしれません。第一、日本が経済大国になったからといって、日本を尊敬する人は、どこにおいてもいないでしょう。昨日まで乞食同然だったような連中が、何を王様の様に浮かれはしゃいでいるのかと。もし日本が世界中の人々から尊敬されたいと思うなら、アジアの人々に日本が今までして来た悪業を、素直に認めて謝る事です。真の教育は、そこから始めなければならないでしょう。
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