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 その9 いじめの発生要因

ここでは現代の教育が抱える問題の一つである、”いじめ”について触れてみたいと思います。まず一つ言えることは、現代の子供には、精神的発達の場が与えられていないこと。そしてこの複雑な社会を生き抜く為に、必然的に無感動にならざるを得ないという事です。結果として、魂を吸い取られて空っぽの、精神薄弱児のような子供ばかりが集まる事になるのですが、彼らは心の貧しさをぬぐい去る為に、誰かを苦しめるサディスティックな快感、或いはそれが社会問題化すればするほどに、その恨めしさを密かに感じるスリル、それが暴露されそうになった瞬間のサスペンスなど、所謂(いわゆる)ある意味での自分が本来持ち合わせている喜怒哀楽の感情の風味を、自分自身の中で発見し、それを味わっていると同時に、思いもよらない激情を感じ取る事の出来るまでになった自分の精神的成長を、確認しているのでもあるのです。つまり、精神が未発達であるが故に、逆にあくまで残酷に、クールに徹することが出来るという、パラドックスを抱えているわけです。子供は決して天使なのではなく、逆に無知であるからこそ、冷酷でもあるのです。言い換えるなら、自分の行なう行為に対して相手が恐れおののき苦悶の表情を浮かべる事に、自分が今生きている証、すなわち、自分自身の存在意義を、確認しようとしているのではないでしょうか。

どの国でも民俗でも、人に対して何かある評価、あるいはテストをした場合、人類は必ずその標準正規分布にぴたりとデータが一致する、と言う事実があります。これは何を意味するか。つまり少数の支配階級と、これまた少数の被支配階級が同時に社会に存在し、尚且つ絶対多数の ”普通の人々” が社会に存在するという事です。しかしながら、そのクラス分けされた各々の階級の絶対数の数に変化がない限り、お互いが自分のテリトリーを守りながら、幸せに暮らしていくことが出来るかもしれません。ところが現実には、その標準正規分布の母平均が、右に右にと移動しているわけです。つまり、人は常に革新を続けているのです。或いは文明の進化と言っても差し支えないかもしれません。人が常に革新を続ける以上、古い時代の人から見れば、それはまさに自分達の存在意義そのものを否定されることになってしまいます。つまり彼らにしてみれば、自分達の存在意義を確立するためには、人の革新を阻止する必要があるわけです。ここに新しい時代の人に対する古い時代の人の不安と焦りが生じ、それが弾圧や迫害という形で表れてくるのです。この為、自分達の存在意義を否定するものは、大きくその芽が育つ前に、どうしても精神的、肉体的にダメージを与えて徹底的に踏み潰しておく必要が生じます。もし、この弾圧に失敗した場合、将来においては逆に自分が復讐をされる立場にあるわけですから、やるからには二度と立ち上がる事が出来ないように、完膚なまでに叩き潰さなければなりません。その肉体的、精神的にダメージを与えるという、最終目標の究極の姿が、自殺に追い遣る事になるのです。いじめる側にしてみれば、自分が今まで味わった事のない、強烈な劣等感、敗北感を味あわされた時に、相手に対する恨みの報酬として、首を吊って死ぬ時の、断末魔の苦しみを与えてやりたいと思う様になるのです。その際のいじめられる側の対象ですが、それは決して ”普通の人々” ではありません。なぜなら彼らは絶対多数だからです。そう、彼らのターゲットは常に少数派である ”優れた人々” にあるのです。

いじめの発生要因としてまずあげられる点は、偏差値という極めて偏った価値基準で人を判断して序列化する事にあるでしょう。実際、学校ではあまり目立たない生徒でも、社会に出てから実力を発揮する者もいるし、逆にいくら勉強が出来ても、社会に出たら何の役にも立たない人がいるからです。詰まる所、本来上にあるべき人間が卑しめられ、下にあるべき人間が惰眠を貪(むさぼ)っているわけで、そこに肥え太った豚どもを抹殺すべし、という憎しみが起こると考えられます。

労働者である社会人には、大きく分けて4種に分類することが出来ると思いますが、仮にそれを A、B、C、Dと、今ここで仮定しましょう。Aと言うのは、社会に出てからの実力もあり、なおかつ温厚な人間です。次に、実力はあるのですが、頑固で横柄なのが、Bタイプです。この手の人は、確かにその道ではプロなのですが、調理師とか大工とか、職人かたぎの人が多く、知識階級やインテリ層と、とかくもめごとを起こしがちです。この両タイプが学校の中に共存するとき、いじめに至るまでには発展しないのですが、往々にして、仲が悪い場合が多いのです。次にCタイプですが、実力もないし謙虚さもない、人に頭を下げるのが嫌なので、社会からは疎んじられる傾向があります。中には暴走族、或いは暴力団にまで身を落す人もいます。最後に来るのがDタイプで、さほど実力はないのですが、腰は低いし上司の言うことを良く聞くので、事務職の様な、割合、恵まれた職に就くことが出来ます。この手の人は、工場や現場で働く、B、Cタイプの人達から、反感や妬みをかわれ易く、また学校の中で共存した場合でも、いじめの対象となる例は、このB、C 対Dとゆう組み合わせが、圧倒的な数を占めています。Dの人から言わせれば、自分が生き残る術としては、寄らば大樹の影なのですが、逆に権力者に身をすり寄せて、呑まれる事で保護して貰うと言うのも、またなんとも情けない話しではあります。確かに、彼らにとって抵抗は相手の反感を生むだけであり、力は弱いものから全てを奪い去ってしまうでしょう。然るに、無抵抗こそが、自分を守る唯一の武器になってしまうのですが、はたしてただ笑いと媚に生きる意志を放棄した人間を、人間と呼ぶ事が出来るでしょうか。

彼らは告げ口をしてはいけない、人に暴力を振るってはいけない、泣き言を言ってはならないと、頭から教えられて育っているのでしょう。いじめられても全然仕返ししないし、いじめっ子もそれをちゃんと分かっているわけです。やられてもやられても、じっと我慢して、耐えているわけです。そうこうしている内に、我慢して犠牲になってる自分がとてつもなく立派な事をしているような自己満足に浸ってしまうのですが、そんな物は唯単に相手をスポイルさせている以外のなにものでもありません。要するに、彼らには”必要悪”が足りないのです。日本には昔から”毒をもって毒を制す”と言う諺がありますが、憲法でも、正当防衛が認められているように、武力そのものが、一概に、悪い事だと決めつけられないという事です。ヤクザの様に、10発殴られて100発殴り返すのは犯罪ですが、10発殴られて、1発も殴り返さないというのもどうかと思います。これは、親からもらった体を粗末に扱って傷つけている事でもあるし、相手の傲慢さをますます助長させることによって、相手そのものをスポイルさせている事にもなる、これも立派な罪だからです。10発殴られたら、せめて7発か8発ぐらいは殴り返すのが妥当なのではないでしょうか。もしそれで警察に捕まったというのなら、それは法律そのものが悪いのです。一向に気に掛ける必要はありません。

結局、今の子供はケンカのし方が分かってないのでしょう。昔の子供は近所同志で年齢の違うものが一緒に遊んでましたから、身分の上下関係というものが子供ながらに会得して、少し自分達より地位が上の者をおちょくっては、四方八方、蜘蛛の子を散らすように逃げ回っていました。でも今の子供はそういう上下関係の意識が身に付いていないし、兄弟もいない一人っ子で親からチヤホヤ煽てられ、桃太郎か金太郎のような気になっていますから、ズにのって、自分より遥かに実力が上の者に対して物凄く無礼な態度をとったりする訳です。で、当然反撃をされるわけですが、ここで初めて自分より格が上の存在を知ると同時に、己の非力さに気付くのです。後はもう、びっくり仰天して、自分が叩き潰されるのではないかと思う恐怖から、逆に仲間を強引にかき集めて自分の身を護ろうとする過剰な防御本能が、時として残虐なまでの集団攻撃を誘発するわけです。今から自殺をして死のうと思うくらいなら、せめて相手の腕一本くらいは冥土の土産にしたいものです。第一、慈悲を与えるのは神や仏の仕事であって、自分の敵に対して慈悲を与えるほど、彼らはそんなに立派な人間では無いはずです。もしもそうなら、今すぐ彼らは立派な教祖になれるでしょう。


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