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その4 教会が抱える問題点
宗教を家庭の中心に沿えている方は、案外多い事でしょう。ここでは一つの例として、キリスト教を題材に挙げてみたいと思います。
まず始めに、信仰を持つにあたり一番心得ておかなければならない事は、自分を冷静に見つめる客観性を持つ事です。この心を失うと極端な選民思想に陥り、様々な不幸を招く事になります。言い換えれば信仰とは、人によっては大きな幸せをもたらし、また別な人には凄まじい破戒をもたらす、諸刃(もろは)の剣であると同時に、神の名を己の欲望を満たす道具として悪用しようとする者は、神の名を汚す最も罪深き冒涜者であるとも言えるのです。
本来ならば、自分自身を向上させようとする良い意味での欲望が、いつのまにか自分達は迫害を受けているのだという被害妄想によって、ねじ曲げられた選民思想の泥沼へとはまり込み、意識そのものが社会に対する激しい憎悪と復讐の念へと燃え上がり、それが益々社会との亀裂を深める悪循環を起こしている例をよく見ます。しかし、考えてもみてください。我々は牛を殺し、豚を殺し、鶏を殺して、それを食料として生きているではありませんか。いや、私は菜食主義者だ、と言われる方もいるかも知れませんが、米や野菜だって元をただせば、生命ある植物から採集したものなのです。ですから我々が今まで生きて来たという事は、多少なりとも罪を犯している事になるのです。人間は自らの行いを、常に美化しようとする様ですが、あれ程旧約聖書で偉大なメシアとして予言されていたイエスでさへ、大変貧しい大工の子として馬小屋で産まれたのです。
そもそもイエス=キリストは何人なのか、御存知でしょうか。これは歴史学的にはアラム人である事が証明されております。アラム人とはユダヤ人の一種族であり、白人と混血している黄色人種です。彼の話した言語がアラム語であり、最初に書かれた聖書もアラム語で記述されていました。後に英訳による聖書が一般に広まるのは、1517年のルターの宗教改革以降のことです。よく、"白人と、黒人と、黄色人種、一体誰が偉いのか" と問われる事がありますが、私はそれを今ここで、議論するつもりはありません。もし、イエス=キリストが黄色人種だから白人より、黄色人種が偉いと言うのなら、ブッダはインド人なのですから、仏教国である日本人は全て、インド人より劣ってしまう事になってしまいます。凡そ神とか天皇とかの類(たぐい)のものは、一国が独立を維持する上で自然発生的に産まれてくるものであり、それを現実からの逃避にしてる例は多いのです。若いときの放蕩三昧の挙げ句、切羽詰まっての困った時の神頼みでは、それは単なる駆け込み寺になってしまいます。
第一、考えてもみてください。もしあなたの子供が大の大人になった時、何時までもスネをかじる姿を見て、それをあなたは好ましいと思うでしょうか。もし本当に自分の子供を愛するのなら、自らの二本の足で踏みしばり、力強く生きて欲しいと願うのではないでしょうか。聖書の中に「叩けよ、さらば開かれん」とありますが、例えそれがどんなに小さな扉でも、精一杯努力することに本当の意義があるのです。自分は何の努力もせずに、直ぐに隣の芝生に住みたがる。しかし結局そこでも満足出来ず、何度も同じ事を繰り返す。これでは例え宇宙の果てまで行ったとしても、未来永劫、永遠に真の満足を得る事は出来ないでしょう。神は人それぞれに様々な能力を与えましたが、与えられたカードの中で最善を尽くす事が、人間の本来あるべき姿なのではないでしょうか。
最後に、聖書からイザヤ書「苦難の僕」の一節を引用し、この章の終りにさせて頂きたいと思います。
彼は卑しめられて 人に棄てられ
悩みを知り 悲哀の人であった
人が顔をそむけるまでに卑しめられ
我らも彼を心にとめなかった
げにもよ 彼は我らが悩みを負い
我らの悲しみを背負ったのだ
しかるにわれらは思った 彼は打たれ
神にたたかれ 苦しめられたのだ と
彼こそわれらの不義のために傷つけられ
我らのとがのために砕かれた
懲罰は彼に下って われらに平安をもたらし
彼の傷によって われらは医された
彼はぶたれても じっと忍び
その口を開かなかった
屠り場にひかれる仔羊のように
毛を切る者の前の雌羊のように
だまって 口を開かなかった
苛酷な裁きによって彼は取り去られた
その運命の転換を誰が思ったか
彼が生ける者の地から断たれ
わが民の罪過のために死に渡された時
人はその墓を不虔な者と共にし
その塚を悪人とひとしくした
彼は暴虐を行なわず
その口に偽りすらなかったが
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