【 市川一家4人殺人事件 】  主犯・・・関 光彦(てるひこ) 2001.12.3 最高裁において死刑確定。  犯行当時少年だった死刑囚の確定は1990.4.17の最高裁で確定した永山則夫(当時19歳)以来11年ぶり。 -------------------------------------------------------------------------------- 掲示板より引用 【1992年】(平成4年) 3/5 <市川一家四人殺人事件> 少年S(19)は、2月に交通事故を起こして負傷させ、介抱するふりをして暴行し、現金を奪った 女子高生(15)のマンションに忍び込んだ。 住所は生徒手帳に書かれてあったものを控えていた。 忍び込んだ男は、女子高生の祖母(83)を電気コードで縊り殺し、母(36)の背中を包丁でメッタ 突きにした。 帰宅した父(42)も同様に刺し殺し、最後に妹(4)にも包丁を刺して殺した。残っ た女子高生を血に染まった部屋の中で強姦した。現金を奪った後、室内から逃げられないように閉 じこめた。このとき、少年は長女に知人の家に電話をかけさせ、金を工面するように要求した。こ の電話を不審に思った知人が 6日朝、派出所に届け、警官が部屋に駆けつけたため少年は逃亡しよ うとしたところを捕まえた。同日夜、犯行を自供、逮捕された。少年ということで死刑判決はない と思っていたSだったが、一、二審死刑判決。現在、最高裁で審理中。 女子高生は自分の母親を目の前で殺され、その血だまりを拭かされながら犯されたという。4歳の妹 に至っては祖母の死体の横で泣き喚き疲れて眠った後、目を覚まして泣いたところ、後ろから顎をつ かんで包丁で 背中から深々と刺し貫いた。その刃は胸から突き抜けたという。 ********************************************************** N子(母)に対しては、娘のI子(女子高生)の眼前で、伏せているN子の背中を柳刃包丁でたて 続けに五回も突き刺し、同女が痛みと苦しみで呻き声をあげ、 身をよじって仰向けになり、足で 床を蹴りながら一メートルくらいずり動いて床に置いてあった被告人のジャンパーに近づくと、被 告人は容赦なくその脇腹を足で蹴り付けて退かせ、母親が刺され恐怖におののくI子にN子の足を 持たせて絶命寸前のN子の身体を居間から南側洋間に運び込み、保育園から帰宅するP子(4才の妹) の眼にふれないようにするとともに、自ら床の血痕や失禁の痕を拭い、かつI子にもこれを拭わせ、 P子が帰宅するとI子に食事の用意をさせてP子に食べさせ、I子や被告人も一緒に夕食を摂り、 その後気分転換と称してI子を強姦し、右強姦行為の最中に帰宅したM(会社経営者の父)に対し ては、背中を柳刃包丁で突き刺して動けなくし、苦痛のさ中にいる同人から預金通帳や印鑑のあり かを聞き出すや、既に瀕死の状態でいる同人を柳刃包丁でさらに一突きして殺害し、恐怖におびえ、 また前記のようにまだ生きていると思い込まされていた祖母の身にさらに危害を加えられることを 案じて抗拒不能の状態にあるI子を意のままに操り、株式会社乙原に案内させ、会社に置いてあっ た預金通帳や印鑑を持ち出させ、帰途ホテル「丁野」に立ち寄ってそこでI子と一夜を過ごし、翌 朝M宅に戻って、目覚めたP子を柳刃包丁で刺した後、 「痛い、痛い。」と苦しみもがく同児を前 にして、I子に対し、「妹を楽にさせてやれば。首を絞めるとかいろいろな方法があるだろう。」 などと申し向け、警察官がM宅に踏み込んできた際には、冷蔵庫の上に置いてあった文化包丁を取っ て、I子に持たせ、「俺を脅しているように持て。俺逃げるから。」などと言って、あたかもI子が 犯人であるかのように仮装し、自らは逃亡を企てたりし、さらに、逮捕された当初、被告人は、警察 の取調べに対し、M宅での本件各犯行を全面的に 否認し、さらにはI子とは親しい間柄にある旨述 べていることが認められるのである。 -------------------------------------------------------------------------------- 波 2000年9月号より 凄惨な少年犯罪の「根源」 祝康成『19歳の結末―一家4人惨殺事件』 佐野眞一  平成四(一九九二)年三月五日、ひとりの男が千葉県市川市の江戸川河口近くのマンションに忍び込んだ。 男は最初に八十三歳の老婆の首に電気コードを巻き付けて縊り殺し、三十六歳の主婦の背中を包丁でめった 突きにした。帰宅した四十二歳の夫の背中にも同じ包丁をふるって刺殺し、祖母、母、父の惨殺死体のそば で寝入っていた四歳の幼女にも包丁を一気に突き入れた。  あとに残されたのは、十五歳になる女子高生だけだった。男は血に染まった部屋のなかで、少女を強姦した。 外には糸のような霧雨が降っていた。  犯人は十九歳の少年だった。犠牲となった一家四人と少年の間には一面識もなかった。冒頭、トルーマン・ カポーティの『冷血』を思わせる乾いた筆致で惨殺場面を描いた筆者は間髪をいれず、この無残な無差別殺人 を犯した少年の生活歴を追っていく。  少年の祖父は裸一貫から身を起こし、やがて市川市を中心に十軒近い鰻屋チェーンを築いた。その長女が少 年の母である。彼女は、役所のダンス教室で知り合ったサラリーマンと恋仲となり、祖父の猛反対を押し切っ て駆け落ち同然に所帯を構えた。少年の幼児期はごく平穏なものだった。水泳教室、ピアノ、英会話と、教育 熱心な母親は少年に何でも習わせた。しかし、祖父の反対した通り、まもなく父親の本性が現れはじめる。酒 とギャンブルと女の生活に入るのに時間はかからなかった。少年はある晩、父親が泣き叫ぶ母親の髪を掴んで 浴槽に浸けている場面を見た。父親の折檻は少年にも及び、些細なことでも痣の出るほど殴った。少年にとって 父親はいつか憎悪の対象でしかなくなった。  家の借金は膨らみ、その苛立ちが母親の過干渉となった。少年の背中にはいつも思い詰めたような顔で見つめる 母親の監視の目があった。少年は知らず知らず指の爪や唇の皮を食べるようになり、「逃げろ、逃げろ、あの家か ら逃げるんだ」と無意識のうちに内語するようになっていた。少年にはひとりだけ親友といえるクラスメイトがいた。 彼の家に行くと、いつも笑顔の母親がやさしく出迎え、香ばしい紅茶と手づくりのクッキーでもてなしてくれた。 夫婦喧嘩が絶えない自分の家とは別世界だった。あるとき少年が聞いた。「君は両親から殴られたことないの」 「一度もないよ。君も聖書の勉強をするといいよ」。親友の家はどんな暴力も完全否定する「エホバの証人」の熱 心な信者だった。  破局は十歳になったある夜起きた。少年がキリスト教の教典を熱心に読んでいると、父親はそれをとりあげ、 「こんなくだらないものばっかり読みやがって」というなり、真っ二つに引き裂いた。その瞬間、少年の血は 逆流した。父親に飛び掛かり、幼い拳をふるった。蹴飛ばされ殴られながら、真っ白になった頭のなかで仕返 しだけを誓った。これ以後、少年のなかの凶暴性が堰を切って溢れた。酒、タバコ、セックスを覚え、喧嘩に なると、祖父の店の鰻の焼き台で使う鉄筋をふるって大けがをさせた。それは皮肉にも、あれほど憎悪した父 と瓜二つの行為だった。女がらみのヤクザの金銭取り立てから逃げているとき、少年は交通事故を起こし女子 高生を負傷させた。彼女を介抱するふりをして暴行し、現金を奪って生徒手帳の住所を控えた。これが金目当 てで押し入った一家四人殺しの伏線となった。  この陰惨としかいいようのないノンフィクションの底に流れているのは、自我モデルの構築に失敗した少年の 救いのない叫びである。同じ父親をもった少年の弟が立派に成長したことでもわかるように、少年は明らかに自 我形成の失敗を父親に転嫁している。もし彼が刃を向けるなら、父親か脅したヤクザに向けるべきだった。それ が叶わぬなら、せめて彼らから逃げ出す勇気をもつべきだった。だが、父親の自我モデルをついに越えることの できなかった少年は、その刃を怯懦にも無抵抗な一家四人に向けた。  読後感をやりきれなくさせているのは、事件の凄惨さではない。少年の「甘え」と「弱さ」こそが、凄惨さの 根源である。しかし、昨今頻発する少年犯罪の裏には多かれ少なかれ、こうしたやりきれなさが疼いている。著 者は感情に溺れることなく、よく抑制して少年の疼きに同伴した。被害者の生活歴や遺族のその後にも注意深く ふれ、少年が一時同棲した女性をフィリピンまで訪ねた丹念さにも、作品の公正さが保証されている。何よりも 評価できるのは、拘留中の被告に何度も面会し、彼の内面を粘り強く聞き出そうとしていることである。一審、 二審で死刑判決を受けた少年はいま、最高裁の判決を静かに待っているという。 (さの・しんいち ノンフィクション作家) ▼祝康成『19歳の結末―一家4人惨殺事件』は、九月刊